●「山のいのち」「海のいのち」
 
立松和平・作 伊勢英子・絵  ポプラ社
まだこの作品のことをよくわかっていないような気がするのだけれど、
なつのおわりに訪れたイルフ童画館でこの2作品の原画と、画家の伊勢英子さんに触れたことが、
わたしの中に強烈に焼き付いているので、あえて書いてみることにした。

「山のいのち」
なつのあいだ、山のおじいちゃんの家にあずけられた静一。
父母は外国に出張にいってしまった。
彼はずっと学校にいっていない。だれとも話をせず、自分の声もわすれてしまっている。
おじいちゃんは静一を自分の息子と勘違いしているのだけれど、
山のことを何でもしっていて、にわとりや、いたちや、魚や、かにや、虫など、
自然の中で魂ぜんぶがぐるぐるまわっていることを
山での人間の営みをとおして静一に伝えるのだった。

「海のいのち」
太一の父も、その父もずっともぐり漁師だった。
ある日父は巨大クエとの格闘の末、水中でこときれていた。
太一は中学を出て、漁師の与吉爺の弟子になり、海へ通いつづけた。
そして与吉爺も死んだ。海へ帰ったのだと太一は思った。
太一は海へもぐった。
もぐり続けて、ついに巨大クエにであう。これが父をやぶった瀬の主かもしれない。

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山のいのち、で冒頭
立松和平氏ものべているが、
山に暮らし、木々の隙間からさしこむこぼれ日をあびても、
どうしても地面が遠ざかって見え、
草花や虫たちの生命の営みを、別の次元のものとして線をひいている自分の存在に気付かざるを得ない。
大人になるというのは、目の前が狭くなるということなのだろうか。
自分がもう子供ではないんだということを自覚する度に、
何か置き忘れいるような取り返しのつかないむなしさ、焦燥感にかられることがある。

この2作品の中で、静一と太一の中でしっかりと存在する「おとな」は、
自然の輪廻の一部と化して、自らの限界をわきまえている。
役割を自覚しているからこそ、生き方に対して冷静でいられる。
そしてあらゆる生物の生と死を受容している。


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いつのまにか秋の空気の気配を感じるようになって、ふと立ち止まると、
またひとつ胡桃はおねえさんになり、フウタはたくましくなった気がする。
地に足をついて生きていくことは、
世代にわたる時の流れをしっかりと体で受け止めることだと思っているのに。
この夏だけでもわけもなくたくさんどなったりした自分の懐のせまい場面の数々が、
今になって重く背にのしかかってくる。

体のひとつひとつの細胞で、自らの生命を感じながら生きてほしいと子供に願いながら。
こうやって言葉を並べている自分が、まるで
はかなさを身にまとっているように感じることがあるけれど、
そんな自らも許容して生きていくべきなのだろうか。

絵を描かれた伊勢英子さん。この方の絵には光と影がある。
どちらも非常に整然と存在し、質素で、それがうつくしい。
「海のいのち」は、それまで海にもぐること、およぐことができなかったというのに、
ダイビングの免許までとる程に克服して海に触れ、描かれたという。
実際はとてもさばさばしてあかるい印象の方だったけれども、
画家としての静かな迫力があった。

「山のいのち」「海のいのち」。
その強い力に、まだまだひとりではたちすくんでしまう自分がいる。





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